1993会長講演要旨
ビクトリア朝 鉄道殺人事件

海外鉄道研究会会長 小池 滋

 19世紀の終わり頃、イギリスで起きた列車内殺人事件の特徴的なものをご紹介します。大変面白く、その中の一つは迷宮入りになったものです。私はなるべく事実を客観的に申し上げますから、皆さん名乗りを上げて、armchair detectiveとして、現場に行かずに、推理で事件を解決し、犯人を挙げていただければ、今日の集まりは、有意義になると思います。
 先ず最初に種本ですが、David&Charles社という鉄道専門の出版社から出た
 Authur&Mary Sellwood,"The Victorican Railway Murder"(1979年)
 があります。ただしこれが唯一ではなく、このたぐいは沢山出ています。
 今日はここに出てくる19世紀末の列車内殺人事件のうち特に興味のある話題を三つ採り上げます。うち二つは簡単に片付け、迷宮入りした第三の事件を詳しく話しますので、その後ご自由に推理したり、意見を述べたり、質問をしていただきたいと思います。
 三つの事件とは、次の日に起きたものです。

  1. 1864年7月9日
  2. 1891年6月27日
  3. 1897年2月11日

 一番最初のは1864年7月9日の土曜日の夜10時頃、客室内で起きた事件で、イギリスにおける最初の列車内殺人事件です。1830年に最初の鉄道がリバプール・マンチェスター間に開業してから34年も列車内の殺人事件がなかったのは、驚くべきことです。もちろん、ひったくりとか泥棒とかはありましたが。イギリスの客車は両側に扉が付いた個室の密室で、隣室とは一切行き来する方法はなく、完全に壁で遮られています。それなのにこの日までイギリスの列車内での殺人事件は全くありませんでした。フランスではそれまでに列車内で凶悪事件が何件か起き、それをイギリスに紹介して警告を発した著名な作家もいました。

第一の事件
 1864年の殺人事件は、イギリス最初という歴史的重要性はありますが、事件は極めて単純で、かつ間の抜けたもので、犯人は捕まって絞首刑になりました。これについては私が文芸春秋社から出した『世界の都市の物語、ロンドン』で、一章設けて詳しく紹介しました。
 ご覧の、地図が発行されたのは多分19世紀の末頃で、ロンドンのDistrict鉄道、つまりロンドンの南半分を走っていた地下鉄です。
 事件が起きたのは此の地下鉄ではなく、現在の国鉄に当たり、フェンチャーチ・ストリート駅から出発した列車で、当時はNorth London Railwayと呼ばれていました。事件はこの辺で起きたらしく、発見されたのは現在のハックニー・セントラル駅です。ここで、乗客が1等車に乗ったら中が血だらけで、誰もおらず、犯人は逃げ、死体は途中の線路にほうり出されて後に発見されました。犯人は色々な手掛かりを残しました。第一に奪った金時計を数日後時計屋に売りに行きました。警察が犯人の下宿に踏み込んだとき、犯人は既にアメリカ行きの船でロンドンから逃げていました。当時はまだ米国との間に海底電線はなく(それが出来たのは1866年?)、イギリスとアメリカの間では電信連絡は出来ず、指名手配は出来なかったのです。
 ところが、当時大西洋には帆船と蒸気船が走っており、犯人は金が無いので帆船でアメリカに逃げました。スコットランド・ヤードは官費ですから、数日後リバプールから出る蒸気船で追いかけ、ニューヨークに先に着き、国際法令の手続きを済ませ、犯人の帆船を待って逮捕し、イギリスに連れ帰って、裁判で死刑の判決が下りました。犯人はフランツ・ミューラーというドイツ人、被害者はトーマス・ブリッグスというロンドンの銀行の重役でした。犯人は貧しい洋服仕立屋で、死刑になりましたが、最後まで無実を主張していました。

 この事件がきっかけとなって、客室内の危険性について一般世論、マスコミが騒ぎだし、法律が出来たり、鉄道会社も重い腰を上げて客室内に紐を通し、それを引っ張ることで車掌や機関士に通報することにしました。この非常用のコードは20世紀近くに電気式になりました。その他にも色々な安全対策が採られました。しかしこの紐を引く間もなく襲われる心配もあったのですが、それが現実になったのが、第二の事件です。

第二の事件
 1891年6月27日に起きた事件は、ロンドン・ブリッジ駅発ブライトン行きの列車で、二つあるトンネルのうち最初のトンネルの中で銃声が聞こえたことで後に乗客が通報しましたが、その時は誰も気付きませんでした。最初の停車場のプレストン・パーク駅で、全身血まみれの乗客が「助けてくれ」と急を告げました。アーサー・メイプルトンという名前で本人は、ジャーナリスト、著作家、芸術家と称し、二人の乗客と共に車室にいたら、トンネルの中で銃声が聞こえ、私はピストルの台尻のようなもので殴られ、失心した。気付いたときは室内は血だらけで、二人はいなかったので、一人は殺され、一人は逃げたであろう、と駅員に伝えました。
 当然、この話を全面的に信じて良いか分かりません。3人いたというがそれを確かめる手段はなく、彼自身が加害者であるかもしれません。駅員は「ここではだめ」と言い、鉄道警察のある終点のブライトンまで付き添って、半分は看護、半分は護送という形で行きました。ブライトン駅には電信で伝えてあった鉄道警察が待ち受け、手当をし、かつ事情聴取をしましたが、メイプルトンは私は被害者と申し立て、一刻も早く帰宅したいと言い張りました。申し立てには怪しい点があり、ブライトンには劇場主に会いに来たと言いながら、すぐに帰宅したいと言い、一方後で分かったことですが、劇場の持主に照会したらメイプルトンを知らぬとのことでしたが、警察のドジによりみすみす捕らえるべき犯人を逃がしてしまいました。結局はメイプルトン(あるいはリフロともいう)が犯人で、列車内で同室の金持、フレデリック・ゴールドを脅して金を取ろうとしたが、格闘となり、最初ピストルで撃ったが外れてしまい、殴り殺し、金時計を奪って、死体をトンネルの中に投げ捨てました。
 しかし警察は彼の言葉を鵜呑みにし、彼を下宿まで送り届け、下宿のおかみの証言を得て、護送警官は帰りました。その後トンネルの中で死体が発見され、メイプルトンが怪しいということになり、警察と鉄道会社が新聞に懸賞金付きの指名手配をしました。しばらく見つからず、その間彼は転々と逃げ回りましたので、新聞等は警察に非難ごうごうという事態がしばらく続きました。その間逃げ回っていた犯人は、知り合い宅に「金を呉れ」と電報を打ったので、懸賞金を知っていた昔の仲間が警察に通報し、犯人の隠れ家で逮捕され、裁判に掛けられて、絞首刑になったという次第ですが、比較的単純な事件でした。

第三の事件
 第三の事件はなかなか面白い事件で、未だに迷宮入りで、分からないことが沢山あり、後世の人がいろいろ意見を述べています。この事件につきかなり詳しく紹介しますから、みなさんも犯人推理に参加してください。

 まず被害者はエリザベス・キャンプという33歳の女性です。彼女は数週間後に結婚する筈で、その直前に殺されたことでマスコミは飛びつきました。
 彼女が乗っていた列車の始発駅は、ロンドン郊外のハウンスロウ駅で、現在はヒースロー空港へ行く地下鉄のピカデリー線が通っています。
 彼女はこの駅を午後2時42分に出発したウォータールー駅行きの2等車のコンパートに乗りました。その際ただ一人で乗ったということは、見送り人が沢山来ていましたから、その証言でも分かっています。その日彼女は婚約者に会うため、ロンドンに向かいました。彼氏が待つウォータールー駅には、午後8時23分に着き、それから二人でミュージック・ホール、日本でいう寄席に行く予定でした。
 エリザベスは普通の女性で、最初はパブの女給でしたがお金をため、33歳の時はパブの経営者になっていました。勤勉で、利殖に長け、いろいろな人に金を貸していたので、彼女から借金していた人が沢山いました。33歳で独身ということは、当時としてもかなり遅い方ですが、実はその前にも別な男と婚約していたことが後で分かりましたが、その婚約は破棄されました。相手のブラウンは自分の方から婚約を破棄したと警察に証言したので、彼が彼女に恨みをもっていないことは分かりました。
 その夜彼女の乗った列車はハウンスロウ駅を出て、8時23分にウォータールー駅に着きました。改札口には婚約者のエドワード・ベリーが待っていましたが、列車が着いて、いつまで待っても彼女は出て来ません。10分位待ってから駅員に尋ねると、列車は定刻に到着し、乗客は全部外に出て、車内は空っぽだと答えました。エドワードは不吉な予感を抱いてホームに入り、列車に近づくと、ある車室の前に大勢の駅員が集まり、中を覗くと、彼女が殴り殺されて、回りは血だらけでした。駅員は彼女を担架に乗せて病院に向かい、エドワードは病院まで付き添いました。病院で彼女はすでに絶命していたので、ここで初めて警察が介入し、エドワードが事情を申し立てました。
 一体どこで、どのようにしてこの事件が起きたのかという問題が起きます。当然、警察が最初に考えるのは、犯行がどの辺りで行われたかということです。列車は各駅停車なので、犯人がどこで乗り、どこで降りたか分かりません。そこで新聞で市民に情報提供を呼びかけました。すると列車の最後部に乗っていたある乗客に証言があり、それはウォンズワース駅かで口髭を生やした背の高い乗客が降りていったということでしたが、これだけでは何ともならず、また同駅の駅員に聞いても、この列車で数人の乗客が降りたが、返り血を浴びたような客は見なかったとのことでした。
 犯行のあった客室内に相当な血が流れていた事からすると、当然犯人は返り血を浴びていたはずです。ウォンズワース駅は高架駅ですから、簡単に飛び降りて逃げられません。
 警察が線路上を徹底的に調べたがそれらしいものはなく、たった一つだけ線路脇の土手から薬剤師が乳鉢で使うスリコギが見つかり、それに女性の毛が一本、血で絡み付いていました。その場所はウォンズワースとパトニィとの間でした。こうなると先程の証言が生きてきて、犯人がここで血染めのスリコギを捨てて、ウォンズワースで降りて逃げたという説明ができます。
 ただし木製のスリコギでは、人は殺せず、凶器は別にあったと思われます。当時の捜査ではその血がエリザベスのものか否かは確定できませんでした。しかしその外には物的証拠は皆無でした。
 そこで回りの人物の洗い出しが始まり、当然先ず婚約者のエドワード・ベリーが調べられました。しかし二人は最近ケンカしたことはなく、またエリザベスを殺すような動機もなかったことが分かりました。またエドワードの周囲の人々の証言も、彼が容疑者であることを否定するものでした。またベリーは列車に乗ってはいなかったことからアリバイがあり、容疑者リストから外されました。

 次に警察の聞き込みで、彼女にかつてもう一人婚約者がいたことが分かり、そのブラウンが警察で事情聴取を受けたが、彼の方から婚約を破棄したと言い、彼女を恨む理由はなかったのです。
 さらに調べが進んだ結果、彼女が沢山の人に金を貸していたことが分かったので、借受人を次々と調べました。
 その際、ハウンスロウ駅近くのパブで彼女のために祝杯を上げ、駅まで見送ったグループの中にトマス・ストーンという男がいて、エリザベスから金を借りていたことが分かりました。近く結婚する彼女が、その前に貸金を清算するため、厳しく返済を迫ったため、彼が恨みを抱いたのが動機とも考えられます。彼女の周辺にはこういう人が沢山おり、トマス・ストーンもその一人と警察は考えました。
 しかしストーンは、彼女を駅まで見送って別れたのですから、彼女を殺す機会はなかったのです。グループの人達もこれを証言し、アリバイ成立で、釈放されました。
 警察はその他にも広範囲にわたり、当時としては適正な捜査を行いましたが、洗った結果はすべてがシロになって迷宮入りし、今日に至っています。
 当時イギリスのジャーナリズムは、この事件を絶好のニュースとして扱い、非常にセンセーショナルに書き立て、容疑段階の人を問い詰め、犯人に仕立てたりして、人権蹂躙的行為もありました。
 こうして後世の人が調べるには、材料には事欠きません。しかし新聞記事は当てになりません。警察は公正に調べましたが、結局は断念し、迷宮入りになりました。
 たまたま1888年に、ロンドンのイーストエンドで、切り裂きジャックという事件が起きました。これも警察は犯人を捕らえることが出来ず、散々笑い者にされ、結局は今日まで迷宮入りになっています。
 エリザベスの事件も、ジャックの事件と同じような扱いを世間から受けて迷宮入りしました。

 エリザベスは犯人が分からぬまま葬儀が行われ、埋葬されました。葬儀には野次馬が大勢押しかけ、騎馬警官を含む150人の警官が整理に当たりました。
 以上が事実です。当然のことながら後世の人がこの事件に対し、推理をしました。歴史推理小説は日本にもありますが、イギリスには沢山あります。ピーター・ラブジィは、ビクトリア朝を舞台にした推理小説を書いています。ビクトリア女王の長男、エドワード皇太子、後のエドワード七世が素人探偵になるという話まで書いています。

 10年ぐらい前に大岡昇平が書いた推理小説短編集に『最初の目撃者』(集英社)があります。その最初の短編のタイトルが「最初の目撃者」で、この小説は日本の現在を扱っておりますが、その冒頭の部分にイギリスにおける幾つかの事件が紹介されています。そこで大岡はエリザベス殺人事件を採り上げ、犯人はウォータールー駅で待ち構えていた許婚と推理する説を記しています。エドワードは改札口で待っていたのではなく、入場券を買ってホームに入り、列車が到着するや否や車内に入って彼女を殴り殺したうえ、降りた乗客と一緒に改札を出て、便所かどこかで服を着替え、改札口の外で彼女を待っているふりをし、頃を見計らって駅員に声をかけたとする説です。

 推理小説としては面白く、最初にシロになったのが犯人であったというのは、良くあることです。しかしこれには無理があり、こんな事をしたら、周りの人に分かってしまいます。
 これ以外の説もありますが、決定的な証拠を欠いています。
 ここで私の説を申し上げます。私も推理小説マニアの一人ですから、犯人はやはり婚約者のエドワードにしたいと思います。しかし先程言ったやり方は余りにも幼稚で、現実味がありません。
 エドワードはウォータールー駅で待っていたのではなく、どこか途中の駅で列車に乗り、密室である彼女の車室に入りました。そして何らかの理由で彼女を殴り殺し、犯人はその車室で血が付いた服を着替え、終点まで行ってすぐ改札口を出て、そこで彼女を待っていたようなふりをしていた、と私は考えます。
 殺人の動機ですが、当時のマスコミは彼女に大変同情しましたが、彼女は一皮むけばすごい女ではなかったかと思います。高利貸、守銭奴であり、エドワードも彼女と付き合っているうちに本性が分かり彼女から逃げようとした。前の婚約者は首尾よく彼女から逃げました。一方エリザベスは歳も歳ですから、エドワードを簡単に離さず、強く結婚を迫ったので、切羽詰まったエドワードが彼女を殺したというのが私の推理です。
 今日の話はこれで終わりで、以下は皆さんの推理を聞かせて下さい。

(会員の発言、会長の回答)
Q.その線に急行列車はあったか?
A.ローカル線だったので、急行はなかった。

Q.線路は複線であったか?
A.高架の複線、ウォータールー近くは複々線であったと思います。

Q.盗難物件はなかったか?
A.なかった。イヤリングが落ちていただけ。最も普通に考えられたのは偶然乗り合わせた強姦魔による犯行で彼女は抵抗して殺されたとみられたので、世論は彼女に同情的になりました。

Q.犯人は列車の窓から飛び降りて逃げたか?
A.列車は高架上をかなり高速で走っていたので、飛び降りることは無理です。

(1993/02/07 海外鉄道研究会総会にて)


会長講演要旨の扉ページに戻る



E Mail

Top Page