1992会長講演要旨
長谷川如是閑の見た倫敦の鉄道

海外鉄道研究会会長 小池 滋

長谷川如是閑の略歴
 今日の話は少し古くて、時代は1910年、明治43年のロンドンです。主人公は長谷川如是閑(萬次朗)というジャーナリスト、思想家です。1875年(明治8年)に生まれ1969年(昭和44年)に94歳で亡くなったので、ご記憶の方もおいででしょう。
 東京深川生まれのチャキチャキの下町っ子で、父は浅草のアミューズメント・センター、花屋敷を経営していました。
 今の中央大学の前身である東京法学院を1898年(明治31年)に出て、1903年(明治36年)に「日本」という定期刊行物を出す日本新聞社に入り、ジャーナリストになりました。同僚に三宅雪嶺などがいました。しかし経営者と意見が対立して、1906年(明治39年)に雪嶺らと共に同社を辞めました。
 その2年後の1908年(明治41年)、今の朝日新聞の前身の大阪朝日新聞社に入りました。ここで彼はかなり長い間、新聞記者、ジャーナリストとして活躍しました。
 当時の大阪朝日新聞社は、大正リベラリズムの中心で、彼はその先頭に立っていました。今でも朝日新聞で続いているコラム「天声人語」は、大阪朝日新聞で長谷川が長い間担当していたもので、非常に筆が立って有名でした。論説委員や社会部長として、日本の近代化、言論自由化のため大きな功績を上げましたが、意外なことに彼は小説も書きました。
 今の高校野球を始めたのも、長谷川が社会部長のときの1915年(大正4年)で、当時の全国中等学校優勝野球大会を朝日が音頭をとって始め今日に及んでいますが、その生みの親が長谷川如是閑です。
 ところが当時の朝日新聞の言論の傾向があまりにもリベラル過ぎて、軍部や政府に対して非常に強い批判的、反抗的な言論を紙上で発表したので、政府と軍部からにらまれ、すきあらばと狙われました。たまたま1918年(大正7年)、新聞に書いてある言葉尻がとらえられ−その言葉を使って「白虹事件」と呼ばれていますが−「朝日新聞は革命をアジっている」と政府から言いがかりをつけられ、その後大変な騒ぎとなり、朝日新聞は社長が更迭され、長谷川らも退職しました。それ以降彼は全く自由な在野の人として論陣をはり、大山郁夫らと「我等社」を造り、これを中心に言論活動を続けました。
 その頃から昭和にかけて言論弾圧が強くなり、長谷川らに風当たりが激しくなったところに、昭和7年(1932)、彼が「日本ファシズム批評」という本を出して、たちまち発売禁止処分を受けました。こうして彼は第二次大戦中の受難の時期を送っていました。
 戦争が終わって彼は返り咲き、そのリベラリズムの言論が高く評価され、以後は陽の当たる場所に出て、日本芸術院会員になり、昭和23年には文化勲章を受け、「長谷川如是閑選集」も出版されました。そういう意味では、戦後は功成り名遂げた華やかな生涯を送って、昭和44年に死去しました。

ロンドン特派員
 この長谷川如是閑が、明治43年(1910)に大阪朝日新聞の特派員としてロンドンに行き、かなり長い間そこに暮らし、色々な記事を送りました。それが本人の手でまとめられ、明治45年(1912)に「倫敦」という本の初版が政教社から出ました。これがその本で後で回覧しますが、特に挿絵が面白いのです。
 彼は、当然ロンドンの生活、政治、経済、社会といった問題をとりあげています。たまたま彼の着任直後に王様のエドワード7世が死去しました。彼はビクトリア女王の長男で、盛大な国葬が行われました。この時長谷川は日本の一流新聞の記者として特別のパスを貰い、一番良い席を与えられ、身近に儀式を見る機会を得ました。また議会では上院、下院を傍聴したり、その他当時のロンドンの生活をつぶさに鋭く観察して、大変面白い文章にしています。
 この長谷川のロンドン印象記はあまり知られてないが、歴史家や社会学者らがもっと注目してよい本だと思います。私達は明治の頃の日本人が書いたロンドン印象記というとすぐ夏目漱石を思い出しますが、たしかに漱石のエッセイのロンドンもそれなりに面白いのですが、如是閑はそれと全く違った目で見ています。漱石は病的なくらい神経質な文学者の目でロンドンを見ています。
 それに対して長谷川は、常識的で、ユーモアを持ったジャーナリストとして、冷静で客観的にロンドンの生活や社会の層を眺めています。そういう意味でこれは大変面白い本で、勉強に役立つ良い参考書だと思います。残念ながらこの本は簡単には手に入りません。古本屋に出ることは少なく、大学その他の図書館でも非常に限られています。もちろん国会図書館にはあるでしょうが。

鉄道を採り上げる
 この本のロンドンの政治、社会、その他もろもろの中に鉄道の話がでてきます。これは当時としては驚くべきことです。
 今でしたら誰か鉄道に関係のない人が外国で1年か2年暮らして、その地の鉄道や交通問題を書くことは珍しくないかも知れません。都市交通とか鉄道の価値を一般社会人も認識していますから、例えば鉄道に全く関心のない人がフランスに行ってTGVについて書くこともあり得るわけです。
 しかし当時の日本人からみればイギリスは世界最高の文明国であり、何でも真似して学ばなければならなかった時代です。日露戦争直後で、日英同盟があって、日本とイギリスは非常に仲が良い時代でした。そういう時代にイギリスに行けばもっとほかに書くことがあったはずですが、彼はロンドンの交通、特に鉄道にかなり比重を置いて書いています。
 長谷川自身が鉄道が好きとか、鉄道マニアであったとかではなく、あくまでもジャーナリストとして、また一社会人として、ロンドンの鉄道を採り上げています。大体560ページの本のうち、30ページを鉄道に割いたということは、彼がイギリスの鉄道、特にロンドンの交通に関心を示し、高い評価を与え、近代文明の象徴として扱っていたことが考えられます。鉄道を通してイギリスの社会の仕組みとか、イギリス人のものの考え方ということに彼の関心が向かっており、鉄道に近代文化の顕著な一例として興味を抱き、それから何かを学びとろうとした姿勢がみえます。

鉄道
 まず長谷川がロンドンの鉄道交通で感銘を受けたのは、第一に鉄道のターミナルが十幾つあることです。1910年も今も大体同じですが、ロンドンの周辺を取り巻き、しかも一つ一つが大建築でした。そのころはまだ東京駅はできておらず、梅田駅も小さなもので、そういう日本から行って、ロンドンのユーストン駅とかパディントン駅とかの大建築を見て、鉄製の大アーチの丸屋根の下に線路が12本ないし20本ぐらい並び、極めて頻繁に列車が発着しているのを見て驚いたのは当然のことです。
 1910年というのはイギリスの交通史からみて鉄道が一番栄えた時期といえます。このあと第一次世界大戦があって鉄道のサービスはダウンします。大戦後の鉄道は、技術的には進歩し、スピードが速くなり、乗り心地が良くなり、機関車の性能が良くなりますが、人々が鉄道を利用するシェア面では斜陽が始まります。イギリスでは第一次大戦後にモータリゼーションが始まり、1918年ごろからお客が自動車にとられる現象が出て、不景気時代に入ってそれが激しくなり、田舎の赤字路線がつぶれ出しました。
 ですから1910年ごろから第一次大戦が始まる前までが、イギリスの鉄道は、人間が交通機関としての鉄道に頼るシェアの大きさとしては絶頂にありました。その時代に長谷川がロンドンに行ったのは幸運であり、私達鉄道ファンからみれば、うらやましい限りです。
 明治の人で、表現や形容は古くさいのですが、鉄道が実に頻繁に人々の日常活動を支えているという驚きを述べています。
 全部私鉄で、ロンドンだけでも十ぐらいの私鉄がサービスを競い、それぞれターミナルを持って列車を頻繁に発着させている組織の大きさに驚き、また感心しています。
 つまり東京や大阪に比べ、ロンドンは、はるか上を行っている。施設の面でも、複々線は当たり前で、都心に近いところでは、3複線、4複線も整って、列車が頻繁に往復しているサービスの良さがある。また踏切がほとんどなく、高架かトンネルになって、交通の遮断がない。こういう点などに感心しています。
 彼は時刻表のことで細かく書いています。時刻表は複雑で訳が分からない。これは今でもそうです。素人が見ても読めないし、第一、素人は買わない。時刻表は駅の案内所にいるプロが読むものと一般の人は思っています。そのため内容が極めて難解です。こういう点についても長谷川は着目しています。
 明治40年代、普通の日本人がロンドンに行っても時刻表はいっぺんも見ないで、それがあることも知らずにすんでしまったでしょう。駅へ行って駅員に聞けば良いのですから。長谷川の目はこの時刻表にまで及んでいます。
 次にイギリス人がよく言うジョークを、この本から引用します。
 「エジプト人がおれの国には象形文字という世界一難解な文字があるといばったら、英人はおれの国には鉄道の時刻表があるといばったという話がある。世間で売っている時間表は、目的地をABC順にして字書を引くと同じに引き出すのだが、発車時間と到着時間しか書いてない。これに日本の時間表のように、通過の駅や時間を書き入れたら、ドクトル・ジョンソンをわずらわすとも、完全な鉄道辞典はできまい」
 ここで最初に言ったのは、線別に駅の名前がズラーと並んでいる普通の時刻表です。後の時刻表は駅名が電話帳のようにアルファベット順に並んでいるABCガイド・ブックです。ロンドンから何駅へは何時何分発、何時何分着の列車がある。途中の乗換は何駅、マイル数、運賃、割引などの案内もある。逆に何駅からロンドンのターミナルへの情報もあります。
 長谷川はこの両者を知っていたようです。
 次に彼が驚いているのは、フリークェント・サービスのほか、技術面、スピードと安全性です。それもべたぼめにほめているのではなく、見るべきところはきちんと見ています。一つの泣き所にドアの開閉に時間がかかることがあります。日本のように一つの車両に四つぐらいあるのではなく、コンパートメントごとにズラーと並んでいるのですから、お客がそれを開け閉めする。閉め忘れたドアには駅員が飛んでいって閉めて回るので、停車駅ではドアの開け閉めで時間がかかる。これは今でもそうです。この点も彼は指摘しているので引用します。「その代わり急行になると早くて安全なことは世界一だ。広軌で客車の幅は日本の汽車に僅か広いだけだから、1時間60マイルで走っても動揺は甚だ少ない。ことに速力が早いのでジョイントの響きが感じないため、すこぶる滑らかに走る。アメリカ人は、イギリスの汽車は速力は早いけれども、ステーションの停車時間が長いと非難するが、英国人はアメリカの汽車は速力も早くステーションの時間も短いが、ステーション外の停車時間が長くて生命が危険だと言っている。
 英国は鉄道事故が少ないが、米国は鉄道事故が多いので、世界一なのだ。日本の鉄道に至っては、速力も遅く、停車時間も長く、事故も多い。三拍子そろったところが世界無類だ」
 彼はこういうように鉄道を扱っても必ず文明批評−日本と外国の社会の違いとか、お客のマナーの違いとか−をやっています。
 もう一つ長谷川が言っているのは、「イギリスの鉄道は、イギリスのリベラリズムの象徴、あるいは実現だ」ということです。イギリス人の自由主義は鉄道においてよく表れていると指摘しています。
 それが最も端的な表れは、荷物の扱い方です。私が最初にイギリスに行った1960年頃から70年頃までは、このイギリスの良い伝統が残っていました。つまり手荷物はチッキ扱いする必要がないのです。ある車両のはじっこに荷物置き場がある。これは駅で預けた荷物の置き場ではなく、乗客が勝手に荷物を置く場所です。自分で置いても良いし、ポーターに置かせても良い。
 着駅ではポーターをつれて来て、その荷物を持たせ、タクシーまで運ばせる。つまり完全に自由に置きっぱなしして、それで全然間違えない。他人の物をかっぱらったり、間違えて持って行くことがほとんどない。これがイギリスの鉄道の長い伝統でしたが、最近は事故が多くなって、あまりやらなくなりました。
 彼はこう書いています。
 「手荷物扱いも極めて簡単で、チェッキも何もない。幾つと何時で預けたら、自分が覚えていて、先方へ着いたら、荷物の在る所へ行って自分の分を勝手に選りだして持って行く。他人の荷物を持ち出すのも訳ないが、間違っても持って行かぬことになっているのも珍だ。イギリスにも元よりかっさらいの類は多いが、鉄道の手荷物に限って決して紛失せぬというのはイギリスの自慢の一つになっている。
 手荷物の定量なども定まっているそうだが、決して超過運賃などは取らぬ。ことに自由な会社では、手荷物預所はあるが、扱所がない。待合室の片隅に手荷物届先の駅名を荷物に貼り付ける駅夫が大勢いて、お客がそこへポーターに荷物を運ばせて、到着駅をいうと、その札を貼り、お客自身自分の乗る列車を指定すると、ポーターは直接その列車へ運び込む」
 「すべてが自由だから、日本のように無用の駅夫をそこかしこに立たせて見張番をさせる必要もない。放任して洩れが出来ても、無用の人間を使って高い給料を払うよりも利益なのだ」
 監視のために無用な人件費を払い、無用なことをやってかえって社会のデメリットになっていることを一例にあげて、長谷川は日本を批判しています。日本は誰か偉い人が見張っていないと駄目なのだと言いたいのです。

市街電車
 当時のロンドンの市内には、地下鉄と場末にある路面電車、それに乗合馬車が公共交通としてありました。
 彼はこれについてもかなりマメに乗っていたらしく、その制度を検討し、日本と比較しています。ここで彼のロンドンの市電に関する部分を引用します。
 「市の中心に近い所では、電導線はレールの下の溝を通じて車台の下から電気を通ずる式だが、場末のはことごとく架空線の裸線で、日本の電車同様二本の角を振り立てて走っている。車台はことごとく二階付だ」
 「レールの下の溝の電導線」とはconduitであり、2本のレールの間の溝に電導線があり、車体から伸びた接触子がそれに触れて電気を採る方式です。
 イギリスの街では普通、電話線、電灯線などあらゆる種類の電線を空中ではなく、地下に埋めて景観を守っています。市街電車も同様で、架線ではなく、地下の電導線からコレクターで電気を採り入れています。
 長谷川は理科系の人ではないのに、このように詳しく観察しています。
 次は区間制の運賃のことです。
 「賃銭は区域制だが、切符は、車掌が胸に当てた機械で切る。一区なれば、一つ切るとチンと鈴が鳴る。二区なれば二つ切って二つ鈴を鳴らす」
 車掌が客から幾ら金を取ったか、客が鈴の音で確認できるようになっている。今の自動販売機のように鈴の音で収入が記録されるので、後で金を数える必要がないのです。
 もっと面白いことは
 「車内に掲げてある乗客への注意は、日本と反対に『切符は降車の節、如何なる請求を受くるとも決して車掌にお渡し下さるまじく候』と出ている。しかして『払った賃金に応じてベルの音に注意せられたく候』とある。二区の賃銭を取ってチンと一つ鳴らしたきりの時は、もう一つ鳴らせと小言を言うべく頼まれている」
 降りる時に切符を車掌に絶対渡してはいけない。渡せば車掌がそれを不正手段に使う。つまりその切符をもういっぺん売って儲けるからというのです。切符は領収書なのだから、客は絶対持っていなくてはならないとの考え方が徹底していることで、彼は日本と比べて感心しています。
 日本では降りる時に切符を渡すのが当然ですが、これは鉄道が、つまりお上が乗客を信用していない、切符を回収しないと乗客がもういっぺん使うと恐れる発想です。しかしイギリスは逆で、客が当局を監視する、つまり車掌が運賃をネコババしないか、切符を再販売しないかをチェックするやり方です。
 一人ひとりの乗客を信用し、その自由をそこなわないイギリスのやり方に長谷川は感心しています。

地下鉄
 もう一つは地下鉄です。明治43年頃の日本には、当然地下鉄はありません。それでロンドンの地下鉄については、かなり詳しく書いています。
 「ロンドンの地下鉄道には浅いのと深いのとある。浅い方は普通のトンネルを出たり入ったりするので、早くからあった。始めは汽車だったが、5・6年前にことごとく電車になったのだそうだ。深い方は地面から6・70フィートないし200フィート近くの地下に大鉄管を埋めてその内を電車が通る。故にこれを『チューブ』と呼んでいるが、これに乗ってロンドンを見物するのが全く管見だ」
 この「管見」という言葉は、「よしのずいから天井をのぞく」に当たる言葉で、「私の見たのは限られたものに過ぎない」という謙遜で、当時の印象記や論文などに「何々管見」という題が盛んに付けられました。長谷川は、チューブにまつわる駄じゃれを言っているのです。
 「普通ステーションといえば横に広がって幅があるものだが、チューブのステーションは縦に細長く地下に入っていて、横幅というものはまるでない。普通の商店より狭い間口に『アンダーグラウンド』という色ガラスの看板が出ている。窓口か自動売札器かで切符を買って入ると、リフトの入口でリフトマンが切符を切る」

乗客風俗
 「鉄道にロンドン人が乗っていると、まるで言語不通の外国人同士が乗り合わせたように一同澄まし返っている。大陸を旅行してから英国に来ると、殊にこの感がある。ドイツでもフランスでも、ロシアでも、一つ室に乗り合わせたものはすぐに懇意になって、何くれとなし語り合う。イギリス人は一つ室に乗り合わせても容易に口を開かぬ。が日本人には、自惚れかもしれないが、どういうものかよく話しかけるようだ。これは誰に聞いてもそういう。僕はほとんど汽車に乗るたびに、英人から話しかけられたように覚えている」
 多分これは日本人が珍しかったからでしょう。おそらくは日本人であることすら分からず、黒い髪の人が目の前にいることから、これは何者か、何処から来たかという好奇心が強かったからでしょう。しかし一般のイギリス人同士は絶対に口を開かない。これは今でもそうです。子供同士が仲良くなっても、親同士は知らん顔しています。
 しかしいったんなじみになると、うるさい程世話をやきます。そうでない場合は、お互い私生活に関知しません。
 「されば人が物を落とした時に、日本なら恩着せがましく『もしもし、何か落ちました』とどなってもよろしいが、ロンドン人は、その時も他人の事務に干渉するのだから、まず『御免下さい』と謝罪してから『何か落としやしませぬか』という」
 これは英語でいうとMind your business. 日本語では「よけいなおせっかいするな」ということです。これが一番端的に表れるのが鉄道車内という密室内で、ここに見ず知らずの人間が監禁されてしまうと、ここでどういう人間関係を結ぶかは、イギリス人にとって大問題です。やたらにプライバシィを破ってはいけない。一見無愛想にみえる空々しい態度も、イギリス人の持つ不干渉主義の表れであると長谷川は指摘しています。これは今でも通用することで、日本人がイギリスへ行くと一番この点でカルチャー・ショックを受けます。アメリカ人やフランス人、イタリア人は親しみやすいが、イギリスの乗客は一番無愛想で、不愉快だったという人もいますが、イギリス人からすれば、他人にちょっかいするのは自由の侵害になるから遠慮していることになります。
 確かにイギリス人の乗客は向こうから話しかけてきません。それを不愉快と思う日本人は、なぜこちらから話しかけないかと私は思います。日本人は外国では向こうから口をかけて貰うものと思っています。イギリス人にいわせればあの日本人は無愛想で無礼だとなるかも知れません。

ロンドンの市内交通
 1910年のロンドンの市内交通に限定するとまずトラムがあります。先ほど長谷川が紹介したように都心部には少ないのです。一つはトラムまでひくと交通渋滞がどうしようもなくなるということです。唯一つの例外は、ビクトリア・エンバンクメントで、テムズ河左岸を通り、チャリング・クロスを少し行ったところでトンネルになり、ホウボーン・キングズウェイから地上に出るということで、交通の激しい所は道路の下を半地下でくぐり抜けています。現在のベルギーのプレ・メトロと同じです。
 経営は小さな会社が集まって、London United Tramwaysという会社を創っています。もう少し経つと完全な公営になります。LCC、すなわちLondon County Councilという東京都に当たるロンドン県の公営企業に合併されます。合併されても郊外にはLondon&suburban Tractionという私鉄があり、かなり路線を持っていました。
 地下鉄は完全な私鉄の寄り集まりで、それぞれが名前を持っており、一番有名なのが最初に1863年に路線を敷いたMetropolitan Railwayです。あと名前を列挙すると、Metropolitan District Railway(今のDistrict線)、Central London Railway(今のCentral線)、Baker Street&Waterloo Railway(今のBakerloo線)。その後は会社が小さくなるに反比例して名前は長くなり、Great Northern Piccadilly&Bnompon Railway(今のPiccadilly線)、Charing Cross Euston&Hampstead Railway、City&South London Railway、Great Northern&City Railway(以上3線は今のNorthern線)、最後は少し変わっているWaterloo&City Railwayで、現在は地下鉄でなく、英国鉄に編入されています。
 こういう小さな会社が競争し合って、ロンドンの地下鉄を構成していました。
 各ターミナルから発車する普通の鉄道、これも色々な私鉄が乱立していました。四つの大企業に統合されたのが1923年ですから、これはそれ以前の話です。
 この「倫敦」という本には面白いイラストが載っています。バスや市電の切符の挿絵もあり、切符の裏が広告になっているのも彼にとってカルチャー・ショックだったかも知れません。
 このパディントン駅の光景は、上野駅も梅田駅もとてもこんなにぎわいではなかったと思います。当時の日本人からすればバカでかいもので、驚きであったと思います。
 改札口がなく、プラットホームまでタクシーが乗り入れでき、客車のドアから降りた客がすぐ乗り込めることも書かれています。
 トラムの写真は絵はがきだと思いますが、ダブルデッカーで当時は2階に屋根がありません。地下鉄シールド工法の写真やビクトリア・エンバンクメントを走る市電の写真もあります。

むすび
 長谷川にとり当時のロンドンの交通網、特に鉄道は大きなカルチャー・ショックであったはずです。彼に比較文明論とか、人間のものの考え方、人間が市民社会で自由に活きることとはどういうことか、そういう問題の提起まで迫ってきたことは、鉄道に対する見方としては正しい見方で、明治43年にしては、この長谷川の見方は驚くほど近代的な見方だったと思います。
 これ以後、ロンドン滞在記を書いた人は沢山いますが、長谷川の「倫敦」は、単に先駆者というばかりでなく、内容的にも多くのものを教えてくれます。我々はこの本につき、鉄道ばかりでなく、様々な点から深く強く検討すべきではないかと思います。

(1992/01/15 海外鉄道研究会総会にて)


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