2002会長講演要旨
イギリスの鉄道員(ぽっぽや)

海外鉄道研究会会長 小池 滋

はじめに
 この講演は2001年7月6日に日本交通協会の昼食会の後に行われた講演「鉄道と文学」の一部を修正・拡大したものであります。原講演は日本交通協会が編集・発行した月刊雑誌『汎交通』第101巻第10号(2001年10月)pp.36-53に掲載されています。

「ぽっぽや」のイメージ
 鉄道員について一般の人が抱いているイメージは、実直、職務への献身ということになる。生活のための単なる手段、給料に対する見返りではなくて、自分のみならず家族の私生活を犠牲にしてでも仕事を遂行する人間というところである。
 文学作品に登場する鉄道員も、そうしたタイプの人間が多い。エミール・ゾラの長編小説『獣人』(1890年、『野獣人間』という邦題もある)の主人公、蒸気機関車の機関士ジャック・ランチェがそうであった。最近の日本の例でいうと、浅田次郎の短編小説『鉄道員(ぽっぽや)』の主人公がそうである。そこで、もうひとつ、鉄道員を主人公としたイギリスの短編小説をとりあげて、比較検討をしたい。同じテーマが、国によってどのように違ってくるかは、興味深い研究材料となるだろう。

退職後のぽっぽや
 作品の題は「おやすみ、かわいいデイジー」(Good Night,Old Daisy)で、作者の名はジョン・ウェイン。アメリカの西部劇俳優と同じ発音だが、綴りは少し違う。アメリカのスターはJohn Wayneだが、イギリスの作家の方はJohn Wainで、1925年に生まれ1994年に死んだ。オックスフォード大学の英文科(つまり彼らにとっては国文科)を優秀な成績で卒業し、すぐに詩人・小説家・批評家として文壇で大活躍を始めた。1950年代初頭から、イギリスの社会のさまざまな面で、伝統・体制に反逆する「怒れる若者たち」(Angry Young Men)という人たちが話題をふりまいたが、ジョン・ウェインは文学におけるその有望な代表格であった。このウェインが1966年に発表した短編小説集『馬の足の死』−この「馬の足」というのは芝居の役者のこと−の中に、「おやすみ、かわいいデイジー」が入っている。主人公は定年退職したもと蒸気機関士で、妻に先立たれ、結婚した一人娘の家に引き取られ、娘夫婦とその息子(ぽっぽやにすれば孫)と一緒にある地方都市の郊外に住んでいる。これはイギリスでは例外的に恵まれた老後の生活と言うべきだろう。娘とその夫が珍しいくらいに思いやりのある好意を見せてくれたのである。アパートで一人暮らしをするか、老人ホームに入るのが、むしろ普通のケースであるのに、このぽっぽやは、本人さえそのつもりなら、一日じゅう温かい家庭の居間の暖炉の脇でのんびりくつろいで、孫相手に昔の鉄道の話でもしていることができるのだから。
 ところが、このぽっぽやさんは、せっかくの羨むべき境遇にもかかわらず、毎日朝飯を済ますと、ぷいと外出してしまい、晩飯まで戻ってこない。どこかで浮気をしているのかと思いたくなるが、実は浮気の相手は、町の駅近くにある小さな鉄道博物館の中に静態保存されている蒸気機関車なのであった。彼が現役時代に乗務した機関車の中で、とくに彼に気が合い、彼が好んでいた一両(彼はひそかにデイジーという愛称を与えていた)が、たまたま現役を退いて、その博物館に保存されることになったのである。
 ここで、この作品が書かれた1960年代のイギリスの鉄道事情を思い出してみよう。ブリティッシュ・レイルが赤字崩壊の危機に直面して、民間会社かららつ腕の経営者ドクター・ビーチングを総裁に招いて、再建策を求めた。それに応じて1964年に議会に提出されたのが、いわゆる『ビーチング・レポート』−正式の題は『ブリティッシュ・レイルの再建』−であった。実に厳しい内容で、赤字線、赤字駅はすべて切り捨て、動力の近代化により蒸気機関車はすべて退役から追放というものだった。
 というわけでぽっぽやがこよなく愛した名機デイジーも、ご主人同様に引退して、運よくスクラップは免れて住む家だけに恵まれた。「城(カールス)」の名がついていたと書かれているから、もとのグレイト・ウエスタン鉄道(のちに管理局)所属、従ってこの小さな博物館とはスウィンドン駅の近くにあった(現在はよそに移転)「グレイト・ウエスタン鉄道博物館」であろう。
 さてわれらがぽっぽやは一日中この寒ざむとした博物館で、愛するデイジーの各部分を雑巾で拭いたり磨いたり、運転台に登って器具を動かしたりしている。産業文化財保存活動のボランティアを志願しているわけだが、彼の昔を知っている古い顔なじみの館員はともかく、最近入ってきた若い職員からはいやな顔を、時には苦情を言われる。見物に来る子供たちに、昔の機関士時代の思い出話をしてやっても、以前のように熱心に耳を傾けては貰えず、変人扱いされてしまう。無理もない、彼らは動いている蒸気機関車など見たことないのだから。
 ぽっぽやは自分が時代の流れに取り残されていると感じるが、それを認めたくないので、しばしば不機嫌になって夕方家に帰ってくるが、迎える娘のほうも面白くないのは当然だ。せっかく老後のための安楽な生活を保証してやっているのに、本人は全く感謝している様子はなく、毎日家から出て行く父に不満を覚える。近所の人たちに家で虐待されていると思われるのではないかと、世間体も気にせざるを得ない。
 年金での生活は厳しいから、外套がすり切れても新しいのを買うわけにはいかない。寒い毎日、すけて見える古い外套で外出していた父は、ある日とうとう肺炎を起こしてしまった。救急車が呼ばれたが、それに乗る前に、再び火の入ったデイジーを昔の仲間の助士と一緒に運転して、夜空の星に向かって疾走する幻覚を抱きながら息絶える。最後につぶやいた言葉が「おやすみ、かわいいデイジー」。

結末についての二つの姿勢
 浅田次郎の描くぽっぽやと(例えば死の直前の幻覚など)似たところもあるが、違いのほうが大きいことに気づかざるを得ない。退職の日まで最後の職務をきちんと果たし、職場で倒れるというようなカッコいい(しかし、あまり現実には考えられない甘い)結末をつけることは、ジョン・ウェインは作家として許せなかった。
 ぽっぽやの人生の悲哀は、退職後にあると考えたのである。毎日博物館で昔の恋人といちゃつくのが生き甲斐だと本人が言っても、通常の生活を送る人たち(それが実の娘であっても)からは理解して貰えない。日本のぽっぽやの人生は、その家族と同僚(つまり同じぽっぽや)との接触でしか描かれていないのに、イギリスのぽっぽやの人生は、外の生活、ぽっぽやでも鉄道ファンでもない普通の常識を持った人間の生活との接触、摩擦を通して描いてこそ、文学としての現実性(リアリティ)を読者に与えることができると考えられた。
 死んだ父親が救急隊員によって家から運び出された時、見送る娘とその夫は、空涙ではない真心からの涙を流すのだが、一方心のどこかでは、ほっとした、よかったという解放感、安堵感があったことを作者は忘れずに書き加えている。これを残酷ととるか、あるいは、人間の正直な本音を恐れずに示す誠実な勇気ととるか、評価は分かれるだろう。そこに「ぽっぽや」についての見方の差が現れるのである。

(2002/01/27 海外鉄道研究会総会にて)


会長講演要旨の扉ページに戻る



E Mail

Top Page